[アナデジ写真記]
毎週だいたい金曜日に更新するblog。
2025/8/1
冷たい夏とフィルムカメラ。
夏らしくなって早ニヶ月。夏だからと言って夏らしいことをするわけでもなく暑さを耐え忍ぶ日々が続いている。夏生まれであるのに、暑さへの耐性は低く、少しでも水分を取るのを忘れればすぐに熱中症になってしまう。慌てて水分や塩分を摂っても頭痛が引くことはなく常にその存在を主張してくる。
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思い返してみれば私のカメラロールは半分近くが冬の写真が占めており、次に田植えの季節が続いている。夏は暑さに耐えるだけで精いっぱいなのでどうしても写真の枚数は減ってしまう。少しずつ、少しずつ、亀が進むようにフィルムを送ってゆく。
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今年も7月に通したフィルムは一巻きだけでほとんど写真を撮れてない。家から出ずに写真を撮ったり、近所の喫茶店で紅茶を飲んだりして1枚だけ撮ったり。1本のフィルムに少しずつ焼き付けていく。
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そうとは言っても、一日中家にいるのはそれはそれで苦痛なので車に乗って外に出かける。
目的もなく、行く当てもなく、フィルムカメラと財布、携帯だけの最低限の持ち物で。カメラはデジタルではなくてフィルムカメラ。フィルムカメラの方が軽くていいし、フィルムの方が雑音が少ない。デジタルだとどうしても液晶で写りを確認してしまったり、携帯にデータを送ってSNSなどしてしまう。
それを止めれば良いのだろうが、使える機能はやはり使いたくなる。デジタルでないときにSNS用の写真を撮るのはスマホカメラの仕事。目的によって機械が分かれているのが良い。別に私は誰かに見て欲しくて写真を撮っているわけではない。写真を撮るという行為は息をするのと同じようなもので、私の一部である。すぐに見られる必要もないし、誰かに見せる必要もない。写真は写真。SNSはSNSである。
実際問題フィルムの方がデジタルのMモードで撮るよりもスキャンして見るぶんには簡単であるし、慣れればどのように写っているかは容易に想像できる。
そんなフィルムカメラを持って太陽よりも早く起き、見つかる前に車に乗り込んで出かける。皆が寝ているうちに都市圏を脱出し、川や海を目指す。冬でも海に出かける私であるが、やはり夏は水のある所に行きたい。泳ぐわけでもなく釣りをするわけでもなく目的はいらない。
大阪に住んでいる私が自然を求めるにはどこも遠い上に財布はいつも軽くて下道を何時間もかけることになる。それゆえに私はいつも早起きなのだ。
しかし、下道も悪いことばかりではない。高速道路では見れない古い町並みが途中にあったり、ダムがあったりとたくさんのチェックポイントがある。
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先を急がず、立ち止まりたいと思ったら足を止めてフィルムを巻き上げ、レリーズボタンを押し込む。
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こんな行き当たりばったりで出かけられるのも一人旅の醍醐味だ。
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移動手段は別に車でなくても良い。鉄道は鉄道でゴトゴトと左右に揺られながら移動を楽しむのも乙である。
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車と違って移動中に弁当を食べたり、外を眺めたり。はたまた寝てしまうなど自由だ。
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水辺に着いたら河原に下りて流れの横を歩いてみたり、誰もいない砂浜に私だけの足跡を残してみたり。わざと波の通るところを歩いて押し寄せてくる波から逃げる。波は私の足跡を律儀に消してゆき、湾曲した砂浜には何も残らない。
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満足いくまで気の済むまで水と戯れ、飽きたら砂丘を登って戻る。砂の熱さが靴底を通して伝わってくる。
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空を見上げれば競うようにして背を伸ばそうとする積雲たち。皆同じスタートラインから一斉に上へ上へと成長している。
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積雲はやがて雄大積雲となって、自身の重みに耐えきれなくなると雷雨を伴った積乱雲となる。何時間もかけて成長してきた雲も最後はあっけなく、みるみるうちに雲の頂から崩れていき、数十分後には水分の残骸だけが空に残される。
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雲が崩れるとそろそろ日没も近い。雲は色づき始め、空はオレンジと青のグラデーションに染められてゆく。
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ゆっくりと、しかし目でもわかるほどのスピードで太陽は水平線に接近してゆき、一瞬だけ出会って再び別れてゆく。
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次第に深い青が空を支配するようになり、黒が空を一周する。
暗くなれば後は帰るのみ。ヘッドライトを頼りに大阪へと戻ってゆく。
熱い日も水平線に太陽が沈むと徐々に空気は冷めてゆき、空気中から追い出された水分が辺りを湿らせる。自宅のある大阪に戻るとやけに暑く湿った空気が戻ってきたことを実感させる。
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そんな感じで今年も夏だからと言ってすることもなく、冷たい夏が過ぎてゆきそうだ。
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